イチゴ

あさあすか

 ピッ。三百九十八円。
 スーパーのレジで働いているは、その日、バーコードリーダーで読みこんだイチゴのだんを見て、春が来た、と思った。
  しゅんのものの値下がりは、季節のうつわりをげる。後で買って帰ろうか。真由美のどもたちはイチゴが好きだ。
 夫のとしみちは夜行バスの運転手で、今夜は帰らない。中学二年のむすしょうと、小学三年のむすめとの、母子三人の夜。本音を言えば、三百九十八円というのも安くはないが、たまにはぜいたくもいいだろう。父親がいない夜は、あの子たちもさびしいはずだ。


 しかし仕事を終えた時間に、目当てのイチゴは売り切れていた。真由美は、かたを落とした。立ちっぱなしの仕事なので、足がじんじんいたむ。
 帰りのちゅうに 、苦手な道がある。それほど広くないのに、大通りへのみちとなっていて、スピードを出した車がびゅんびゅん通るのだ。もうわけていに白線一本引かれただけの歩道を自転車で走る。たまにランドセル姿すがたの子がてくてく歩いているのを見かけるが、本当にあぶない道だと思う。
 アパートに着いて、ドアを開けると、げんかんに翔太のくつがあった。
「ただいま。翔太。帰ってんの?」
 返事がない。
「返事がないから入るよ。」
 真由美は、わざとのうてんをよそおった声で言いながら、子供部屋のふすまをいきおいよく開けた。
 ベッドにうずくまっていた翔太が顔を上げた。その目は真っ赤だった。
「勝手に入んなよ!」
 そくに体の向きを変え、翔太は耳にイヤホンを付けたまま、手にしたスマホをいじり続ける。丸めたぼねが思いがけず細い。
 真由美は立ちつくす。
 息子の背中に手をそえる自分をそうぞうする。あるいはスマホをもぎ取って、問いつめる自分を。
 学校で何があったの? だいじょう
 答えは分かっている。大丈夫。ほっといて。
 いつのまにか、子供の心の中が見えなくなった。
 何と話しかけようかと思っていると、玄関から「ただいまあ。」と元気な声がした。結愛が、学童から帰ってきた。


「ねえ、お母さん、聞いてる?」
 結愛にシャツをられ、
「危ない!」
  まな板で野菜を切っていた真由美は、ついけわしい声を発した。
 学童から帰宅した結愛は、真由美のとなりでずっとしゃべり続けている。注意すると少しむくれるが、でもまたすぐ話しだす。友達のこと、先生のこと、休み時間の遊びについて。真由美は、火の通りがよくなるように、野菜も肉も細かく切る。
 カレーのみが終わると、真由美は、
「今からちょっと買い物に行くから、ばんお願いね。」
 と、結愛に言った。
わたしも行く!」
「自転車でちゃっちゃと行っちゃうから、結愛は家にいて。ユーチューブ見てていいから。」
 そう言うと、結愛はだまる。
「七時からご飯ね。」
 真由美は、翔太にも聞こえるように大きな声で言うと、じょうし、アパートの外階段を急いでりた。そして、さっきまで働いていたスーパーへ自転車を走らせた。
 夕食前の店内はんでいた。
 買い物かごを手にするのももどかしく、真由美は足早に果物のコーナーを目指す。
 あった。ほっとして、残っていたイチゴのパックをそっと手に取った。安いイチゴは早い時間に売り切れてしまったが、高級ブランドのイチゴはまだ残っていた。その値段にいっしゅんひるむが、買いたかった。イチゴをナイロンぶくろに入れて、空気をふきこんで丸くふくらまし、入り口をだいじに結ぶ。
 自転車のペダルをこぐと、夜風がほおにふきつけた。前かごに入れたイチゴのナイロン袋が風を受けてシャラシャラと音を立てる。夜目に車のライトがまぶしい。やっぱり危ない道だ。多くの車は真由美の自転車をすときに速度をゆるめてくれるが、たまに思いやりのない車が横をシューッと飛ばしていく。ダンプカーにそれをやられて、ひやりとした。
 ――何かが起こってからじゃ、おそいのにね。
 ふと、スーパーで働く人たちがこの道について話していたのを思い出す。ガードレールを付けてくれればいいのにね。だれかが言った。そうよ、そうよ、とみな が言った。
 どうしてなんだろう。
 真由美は思う。あれを聞いたのは一年以上前のことだ。 どうしていまだにガードレールは付いていないのだろう。


「カレーだよ。」
 真由美が陽気な声を出すと、はらをすかせた子供たちはすぐやってきた。
「やったあ! カレーだ! おいしい!」
 結愛がはしゃぐ横で、翔太はもくもくと食べている。
 翔太のしょくよくがあることに、真由美はひそかにほっとした。自転車を走らせた足は、かたく張っていて、正直立っているだけでくたくただったが、立ち上がり、子供二人に水のおかわりをくむ。
「翔太、どう? カレーの味は。」
 結愛のおしゃべりをさえぎり、真由美は、ずっとだまっている翔太に問いかけた。翔太はどこかしょうてんの定まらない、暗い目をしていた。「どう?」ともう一度きくと、はっと顔を上げ、「何が?」と言う。
「お兄ちゃん、ぼんやりしすぎ!」
 結愛が笑う。
「うるせえな。」
 言い返すその声にも、いつもの張りはない。


 食事を終えた後、真由美は結愛に「向こうの部屋に行っていて。」と言い、それから翔太に「ちょっと話すよ。」 と声をかけた。
「は?」「ええ、なんで?」
 子供二人の不満げな声が重なった。
「お兄ちゃんに、だいじな話があるの。」
 部屋にいたがる結愛に「ユーチューブ見てていいから。」 とタブレットをわたした。ようやく翔太と二人きりで向き合う。
「あのさ、学校でいやなことがあるんじゃない?」
 真由美はそっちょくにたずねた。
「え、なんで?」
 翔太がきく。
「顔を見てれば分かるよ。」
 翔太はし、スマホをいじりだす。
「いつもスマホばっかり見てるけど、そんなに何を見てるの。」
 そうきくと、けいかいする顔になりスマホを置いた。
「何でもないよ。」
「翔太。言ってくれなきゃ、何も分からないよ。」
「だから、何でもないって言ってるし......。」 と言って、そのまま出て行こうとした翔太に、
「お母さん、帰り道、こわかったんだよ!」 と、真由美は言った。
 は? というふうに口を少し開けて、翔太は母親を見下ろす。真由美も、口をついて出た自分の言葉におどろいていた。翔太を引き止めたくて、何か言わなくちゃと思ったのだ。
「スーパーに行く道だよ。前に話したよね? せまいのに、すごく飛ばす車があるって。さっきもお母さんの横を、すごい勢いで車が通ってって、転びそうになった。」
「え、大丈夫だったの?」
 翔太が心配そうな目をする。それは、久しぶりに見た、息子の本当の顔に思えた。
「あんなに危ないのに、小さな子も通るのに、あの道、ガードレールが付いていないんだよ。みんな、ガードレールを付けるべきだって言ってる。でも、ずっと付いてない。どうしてだと思う?」
 翔太は少しだまってから、「予算がないんじゃね?」 と言う。予算......予算ね。そんなむずかしいこと言うのかと思いながら、
「お母さん、明日仕事に行く前に、役所に電話してみようと思う。」
と、真由美は言った。
 さっき思いついたばかりのことだった。どうしてずっと思いつかなかったのだろうとも思った。
「やめときなよ。そんなの、意味ないよ。」
「意味ないかどうかなんて、分からないよ。こういうことは、自分だけでなやんでいても、何も始まらない。たよれるところに、ちゃんと頼らないと、変わらないんだよ。」
すると、翔太がスマホをいじりだす。
「ちょっと。聞いてるの?」
「......それなら、こういうほうが。」
と言って、翔太は何やらスマホの画面を真由美に見せた。役所のホームページ内にある、「せいがんちんじょうの書き方」 というページだった。
「何、何。」
「えらい人にたのむ、正式な頼み方じゃない? ここにくわしく書いてある。じんより、だんたいで出したほうがこうあると思うよ。」
「へえ......。」真由美は感心した。「そうか。じゃあスーパーの仲間たちにも声をかけてみるか。ありがとう、翔太。」
 真由美の言葉に、翔太は照れくさそうな顔をする。でもその表情はまたすぐ暗くなる。無言で部屋を出て行こうとする。
「待って、翔太。」
 真由美はあわてて引き止めた。
「あのさ、本当に言いたかったのは......。」
 あんたが心配で心配でたまらないんだよ。
「子供の悩みを知らないことが、大人はとてもつらいってこと。」
 真由美が言うと、翔太はうつむいた。
「きついこと、ずっと一人でかかえてるんじゃない?」
 息子は何も答えない。
「でもさ、いつまで抱えてく? きついことがあったときに、誰かに頼ることって、だいじな方法だと思うよ。弱さじゃないよ。お母さんじゃ頼りにならないって思っているのかもしれないけど、だったら学校の先生とかほかの大人とか、話せそうな人はいない? 大人に頼らないとかいけつしない問題もあると思うよ。」
 途中でさえぎられるかと思ったが、息子は静かに最後まで聞いていた。
「お母さんも、いつでも話、聞くよ。」
 小さくうなずいた息子を見て、真由美は何だか泣きたいような気分になった。
「はい、終わり。さて今日はイチゴがあるんだ!」
 明るい声で言いながら、れいぞうを開ける。自ら発光しているかのように、イチゴがまぶしくかがやいた。
「結愛もおいで。イチゴだよ!」
 真由美はふすまを開けた。
 結愛はタブレットを見ていなかった。和室のおくで一人うずくまって顔をふせていた。
「あれ、結愛? どうしたの?」
 呼びかけると、結愛は小さくふるえだし、それから「わああああ!」と泣きだした。
 真由美は近所を気づかい「しーっ!」と言った。
 しかし結愛は泣きやまなかった。それどころか、いっそうはげしく泣いた。
「お母さんなんか! お母さんなんか......!」
 ふりしぼるような声で「お兄ちゃんばっかり。」と言われて、真由美は気づく。私は今日、この子の話を一度でもちゃんと聞いたのか。
 真由美は思わず結愛をきしめた。しばらく泣きじゃくっていた結愛が、やがてゆっくりと母親の背中に手を回したのと同時に、翔太が顔を出し、「イチゴ、あらったよ。」と言った。

あさあすか

作家。東京都出身。ちょしょに「人間タワー」「君たちが今が世界すべて」などがある。

読み物一覧へ戻る

page top