「てつがく」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。聞いたことがない? 何かで見た? 何だか難しい? 確かに「てつがく」は「哲学」という字を書きます。いかにも難しそうな見た目です。でもきっと、あなたも気に入るはずです。だって、あなたがふだん、気づかないうちに行っているような営みだからです。
「何でだろう」と不思議に思うことはありませんか。言葉にならない「もやもや」に、自分の心がおそわれるような瞬間はありませんか。そんな「不思議」を前にしていちど足を止めて、ぐるぐる考えること。これを「哲学」といいます。
あなたが考え込んでいるとき、大体の場合独りきりでいることが多いと思います。私もそうでした。友達とドッジボールをしているとき、急に「何で自分は自分なんだろう。」という「不思議」がおそってきて、手が止まってしまう。眠ろうと布団に入った瞬間、「宇宙の果てはどこなんだろう。」という「不思議」がやってきて、眠れなくなってしまう。周りの大人や友達は、あなたが考え込んでいる間、どうしたんだろうという顔でこちらを見ています。自分の「不思議」は誰かと共有することはできないんじゃないか、とさえ思ってしまう日もあります。
「哲学対話」という時間は、独りきりではなく、誰かといっしょに「不思議」を考える場です。ええっ? そんなことできるの、とあなたは思ったかもしれません。意外におもしろいものなんですよ。
哲学対話は、教室や会社、どこかのグループに入り込んですることもあれば、カフェや本屋、公園、音楽ライブ会場などで、その場に集まった、はじめましての人たちと哲学することもあります。
私は集まった人たちから、「不思議」を聞き取る時間が好きです。「愛とは何か。」「なぜ生きるのか。」そんないかにも哲学らしい「不思議」もだいじですが、そこにいる人たちは、それぞれの生活に根差した「不思議」を持っているはずです。それはどんなものかを知りたいと思ってしまいます。あなたにもきっと「不思議」はありますよね。「今、ここ」からの、その人だからこそ出てくるような哲学。私はそれを「手のひらサイズの哲学」と呼んでいます。
「不思議」を出し合う時間になると、大人たちは困ってしまいます。それに対して、子供は「不思議」がどんどん出てきます。ですが、大人も子供も、ぽろぽろと口からこぼれる「不思議」は、どれも変な形をしていて、小さくて、おもしろいのです。
「何で友達と自分を比べちゃうんだろう。」「正しいことって悪いことなのかな。」「スポーツをしてるんですって言ったら、いいですねって言われがちなんだけど、何でそれがいいことみたいにされてるんだろう。」「天気って何で変わるんだろう。」「何で、何でって思うんだろう。」
誰かの「不思議」が、別の誰かの「不思議」を引き連れます。友達の「不思議」を聞いて、初めて思い出すことがあるでしょう。考えてしまうことがあるでしょう。そういえば自分はこんなことが気になっていたのだと、発見するような気持ちがあるはずです。
あるいはこんなこともあります。誰かが「自分の家の庭に雑草が生えてくる」という話をしました。わざわざ初対面の人と集まって、そんなことを聞いて何の意味があるんだと、言われそうな話かもしれません。でも、じっくりと聞きます。哲学の種が落ちていないか、ゆっくりと探すのです。「でも思えば、何で雑草を抜こうとしちゃうんだろう。」その一言をきっかけに、その人の日常が「不思議」になりました。そうして、そこにいる人たちが一斉に考えだすのです。対話を始めるというよりも、始まってしまう、と言ったほうがいいでしょうか。
雑草を抜くことはあたりまえだと思われています。でも、よくよく考えてみれば不思議ではないですか。そもそも雑草って何なのでしょう。なぜ抜く必要があるのでしょう。
人々の言葉が重なり、対話はゆらゆらとゆらぎながら、進んでいきます。何か分かりやすい答えを見つけるというよりは、分かったつもりで本当は分かっていなかったことに向き合うような体験です。
落ち葉が静かに重なるように、言葉が積み上がっていき、私たちはそこに深く潜っていきます。庭に雑草が生えてしまうという誰かのつぶやきが、気がつけば「私たちはなぜ、気に入らないものを、あっちへやろうとしてしまうんだろう。」という「不思議」に育ちます。
あなたの「不思議」をぜひ教えてください。あなただけの宝物のような「不思議」は、誰かと考えることで、もっと輝くかもしれません。
絵・尾柳佳枝
永井玲衣
哲学研究者。学校や美術館などで哲学対話を行っている。著書に「水中の哲学者たち」などがある。