「学校」と聞いて、あなたはどんなことをイメージするでしょう。楽しいですか? それともちょっと苦手ですか?
学校が好き朝顔に水をやる 津田清子
学校の試験過ぎたる昼寝哉 正岡子規
一句目は、なぜ学校が好きなのか、私は朝顔に水をやるのが好きなんだ、と答えました。違う人が詠めば、〈学校が好き給食のさつまいも〉とか〈学校が苦手プールで目を洗う〉とか、人の数だけ、好きな理由、苦手な理由が出てくるでしょう。二句目は、テストの時間は終わっちゃったな、と思いながら、のんびり昼寝をしています。明治時代に俳句を革新した子規さんも、テストは嫌いだったようです。
「学校」という言葉が指すのは、さまざまなことを学ぶ場所です。でも、思い起こすイメージは人によって違います。「学校」と聞いてにっこりする清子さんもいれば、面倒くさそうな子規さんもいます。好きでも苦手でも、どちらでも大丈夫 。俳句は、こうあるべきという理想の姿を決めてしまわず、ありのままを受け入れてくれる、自由な詩です。
次に、「桜」という言葉から、何をイメージしますか? 咲き始め、満開、散り際。教室の窓から一人で眺める桜もいいし、お花見のように人と見る桜も華やかです。
ちる櫻白馬暴るるごとくなり 正木浩一
さくら、ひら つながりのよわいぼくたち 福田若之
一句目は、強い風に満開の桜がゆっさゆっさと揺れるのを、白馬が暴れているようだとたとえました。散りゆく桜の最後のあがきが、命のかたまりとなって躍動します。二句目、今を生きる「ぼくたち」は、学校や塾で会えば仲良くするし、メッセージを送り合ったりもするけれど、風が吹けば離れてゆく桜の花びらみたいに、実はつながりの弱い者どうしなのかも。現代に生きる心もとなさ。同じ散る桜でも、かたまりか、ひとひらか、導き出す感覚もずいぶん違います。
俳句では、こうした言葉のイメージを活用します。「学校」って、「桜」って、どんな存在だろう。思いつくイメージを膨らませ、五七五のリズムに乗せていきます。このとき大切なのは、「私」の感じ方です。学校を好きと言ったほうが先生は喜ぶかな、桜は満開のほうが俳句らしいのかな、なんて気にする必要はありません。人の目を気にせず、「らしさ」に引っ張られず、桜を私に引き寄せるのです。誰のものでもない、私にとっての桜。俳句に私の血を一滴与えることで、十七音の言葉は、新しい輝きを放ちます。
最後にもう一つ、「光」という言葉は、どんなイメージをもたらしますか。
海へ剝く蜜柑よ光なら此処に 神野紗希
待ちわびた太陽ひかりのそばへ鉢 ウラジスラバ・シーモノワ
この冬、同じ「光」というテーマで、ウクライナの俳人シーモノワさんと交換した俳句です。私の家は祖父母がみかん農家だったので、海が見える山でよくみかんをもいで食べました。「光」と聞いたとき、海光に暖かく照り返すみかんを思い出したのです。シーモノワさんは、侵攻の影響で避難生活を続けています。曇りが多い季節、やっと晴れた朝に、鉢植えを窓へ運び、日光を当てました。命の源である太陽に、つらい日々の希望の光が重なります。
「学校」「桜」「光」......言葉を一つ決めて、自由にイメージを膨らませてみましょう。きっと、あなたらしい俳句ができるはずです。
絵・尾柳佳枝
神野紗希
俳人。愛媛県松山市出身。句集に「すみれそよぐ」、著書に「俳句部、はじめました」などがある。