「人生には詩が必要だ。」そう断言できる人は、あなたの周りには少ないかもしれない。教科書にのっている詩に退屈して「何のために詩なんて読むのか。」といぶかしく思っている人もいることだろう。 詩を書く者として、その疑問に答えたい。
日常生活で自分の感覚に注意を向ける機会はまれだ。外部の情報ばかり気になってしまう。無意識にいらだったり、胸が熱くなったりすることはあるが、なぜそれが起きるのか、体が今どのような状態にあるか、よく分からないことが多い。
そんなとき、詩を読むことは「今の自分」を知る手がかりになる。詩からまず何を感じるか。素直に受け取ってみるのだ。よろこびか、さびしさなのか、つき上げるような興奮なのか。詩のどの部分からその感情がわき出しているか、細部を観察してみる。すると、今の自分にとってささる一行や、心地よい音のひびきが見つかるだろう。そのことで今の心の状態が見えてくるのだ。
日によって、気になる一行が変わることもある。たとえ詩の内容が分からなくても大丈夫。「今は言葉がうまく入ってこない。」というのも、一つの発見だ。この読み方は、「言葉の解像度」を上げる訓練にもなる。一行を吟味する力を養い、自分の気持ちをより的確に表現することに役立つのだ。
詩を求める理由について、私自身の体験もつづってみよう。私はあるとき、谷川俊太郎さんが二十代後半に書かれた作品を読み返していた。谷川俊太郎さんは一九三一年生まれの詩人で、日本を代表する詩人の一人。自分と同世代だったころの谷川さんがどんな詩を書いていたのか気になったのだ。谷川さんといえば、作風もお人がらも泰然とされていて、さっぱりとした印象が強いかた。だが、二十代後半のころの詩に刻まれていたのは、意外なほどに激しい感情。いかりや葛藤があちこちににじむ。「こんな作品も書かれていたのか。」と新鮮なおどろきを覚えた。
特にひかれたのは、「頼み」という作品だった。〈裏返せ 俺を〉という詩句のくり返しが音楽的にひびく。〈俺の胃や膵臓を草の上にひろげて/赤い暗闇を蒸発 させろ〉といったいかりを経て、〈裏返せ裏返してくれよ俺を〉と懇願する着地点は、もの悲しく、さびしげでもある。けれど読みながら、私は己の傷ついた心がいやされていくのを確かに実感した。
いかりやなみだ、血を見ると、それがちゃんと「きたない」ことに、安心する自分がいる。同時に、自分の内にもそれと似たものがあることに気づく。もちろん詩の言葉は「きたない」だけではない。そこには日常で忘れかけた感覚がていねいに言語化されている。言葉にすることは、その存在を「認める」ということだ。ふがいない自分。繊細すぎて殻にこもる自分。相手にとげとげしい態度をとっては、自己嫌悪におちいる自分。みにくい自分――。私たちは、こんなにもむき出しで弱い「自分」をかかえながら生きている。
一見「きたない」と切り捨ててしまいそうな、認めがたい感情を、詩は静かに受け入れてくれる。そんな包まれるような体験を求めて、私は詩を読み、詩を書いているのだ。
私たちは社会との間で、ときに折り合いをつけられず、いらだち、なみだを流す。学校や家庭での身近な人間関係になやむ人もいるだろう。「普通に生きる」ことの難しさと、ままならなさ。そんなとき、詩はつらい気持ちの吸収剤となり、あなたのいちばん近くに寄りそうだろう。「本当に?」と思った人は、図書室にある詩集を見てみよう。しんどいときは思い出してほしい。ふがいなくて、かっこわるい「私」を、詩の言葉が救 ってくれることを。
絵・尾柳佳枝
詩人。北海道出身。著書に「適切な世界の適切ならざる私」「洗礼ダイアリー」などがある。