「よお、今度の日曜日空いてるか?」
昇降口で、僕は靴箱からあわてて運動靴を取り出した。この声は同じクラスの来次だろう。五年生でいちばん、体も態度もでかい男子。ほとんど関わりはないけれど、来次の押しの強さが苦手だ。早く立ち去ろうと、運動靴をひっかけ足を踏み出した。つま先に体重をかけながら、前のめりになる。
「よお、青山瑶! なんで逃げる。」
背筋がしゅっと伸び、すとんとかかとが落ちる。「よお」というのは、誰かへの呼びかけであって、まさか僕を呼んでいるとは、思いもよらなかった。だって、僕のことを「瑶」と呼ぶ人はいない。
「ぼ、僕?」
「そう。だから、今度の日曜日空いているかって。」
おそるおそる振り返る僕に、来次がせっついた。その圧に、思わずうなずいていた。
「よっしゃあ。トンボとり行こうぜ。」
トンボって秋じゃ 。ごにょごにょつぶやくと、来次は得意そうに言葉をかぶせた。
「瑶は頭いいのに、そんなことも知らないのか。もうこの時期から出てくるんだって。」
決まりな、と言って来次が去ったあと、どんよりくもった梅雨空を見上げた。約束をした「日曜、十時、校門前」を頭の中で復唱する。
腕時計の針はもう十時半を回っている。梅雨なのに、朝から太陽はじりじりと照りつけていた。校門のそばには、さえぎるものが何もない。キャップ帽のきわから、汗がじわりとしみ出した。
完全インドア派の僕が、友達とトンボとりに行くことを伝えると、お父さんは予想以上に喜んだ。外で友達と遊んだりしないことを、実は心配されていたらしい。
お父さんに百円ショップで買ってもらった、緑の虫かごを斜めにかけ、虫とり網を地面についている。アスファルトに伸びたそのシルエットが恥ずかしい。
スマホがあれば連絡できたのに。別に欲しくなかったから、ねだりもしなかった。今さら悔やむ。
まさか事故? いや、約束を忘れてしまった? 不安が頭の中を、回遊魚みたいに回り続ける。
一時間待って来なかったら、帰ろうと決めた。だが、いくら待っても来次は現れない。
時計を見ると、十一時までまだあと七分。暑さが増した。頭がくらくらしてくる。ゆうべは緊張していたのか、寝付きが悪かった。完全な寝不足だ。
すると、ひょっこり来次が現れた。
「いやあ、わりい。寝坊しちゃってさ。待った?」
待った? 全く悪びれていない来次に、僕はとっさに反応できず、口をぱくぱくさせた。
「瑶の携帯分かんなくてさあ。聞いときゃよかった。」
「僕、携帯持ってないし。」
「連絡手段なかったんなら、しょうがなかったな。」
何がしょうがなかったんだか。絶句する。
「さ、行くべ。永田緑地にある、秘密のトンボスポット、教えてやる。」
来次は大遅刻のことなどなかったかのように、機嫌良く大股で歩き出した。
永田緑地に入ると、いよいよ来次は駆け出した。僕はついて行くのに必死だった。
「瑶、おせえぞ。」
それ言うか。大遅刻のくせに。心の中で言い返す。
来次に追いつくと、木々に囲まれ、よどんだ感じのため池があった。僕は肩で息をついた。
「ここな、先週もとれた。」
池の向こうを、しゅんと青いトンボが飛び去った。
「先週も来たの?」
「おん。あーちゃんと健と。今日は、あーちゃんは塾の模試、健は暑いからイヤだって。」
二人は、来次がよくつるんでいる、元気のいい男子たちだ。
来次はトンボを探すように、きょろきょろしている。僕はつばを寄せ集めて、飲みこんだ。
「じゃあ、な、なんで、僕のこと誘ったの?」
来次は左右に振っていた首を、僕の顔でぴたりと止めた。
「別に。ただそこに、瑶がいたからだけど。」
あたりまえのように答えて、来次は再びトンボを探し始めた。僕は、来次の向こうに広がる空に目を移した。来次は、僕とは違う地平を生きている。じとじと考えたりしないんだ。
「あっ! さっきのトンボかな。戻って来たぞ。」
来次は池の向こう側へ、さっそうと駆けていった。青いトンボが池のふちに止まった。来次はトンボに近づいていくが、なぜか知らんぷりしている。すると、いきなり虫とり網で空を斜め切りした。
「よっしゃあ。一匹目 、ゲットだぜ!」
来次のところにダッシュした。来次が手にしたトンボは、どこかのきれいな群青の海 そこにミルクを混ぜたみたいな水色だ。その神秘的な色に、目がくぎ付けになった。
「これはシオカラトンボのオス。きれいだろ。メスは黒と黄色なんだ。」
来次は自分のことを自慢するみたいに言うと、片手を掲げてトンボを逃がした。
トンボは、うす水色の空をバックに、はねを広げて飛び去った。はねも青みがかった透明で美しい。
「逃がしちゃうの?」
「おう。虫かごに入り切れないほど、とれるし。」
来次は僕の虫かごに、ちらっと目線を向けた。そういえば、来次は虫かごを持っていない。
「あっ、来たぞ。今日はトンボ日和だ。」
晴れわたる空を見上げ、来次が声を弾ませた。池には五、六匹のトンボがしゅんしゅん飛んでいた。
「トンボもえさが見えやすいから、出てくるんだ。」
「来次くん、すごいね。よく知ってるね。」
教室の中では、勉強が苦手そうに見えたのだけど。
「おい。くん付けで呼ぶの、マジやめろ。」
来次は照れくさそうに鼻の下をこすると、トンボを目がけて、また池の向こう側へ回った。
「二匹目、ゲット!」
よし、僕も、と気合いを入れた。トンボの数が増えてきたが、とれそうでいっこうにとれない。トンボは予想以上に俊敏で、なかなか網にかかってくれない。
向こうから、「三匹目!」という来次の大声が響く。僕はあごを伝う汗をぬぐった。
ふと、すぐそばの背の高い雑草に、シオカラトンボが止まっているのに気づいた。黒と黄色だから、メスだ。僕は、トンボの正面にそろそろと移動し、眼のあたりでゆっくり人差し指をぐるぐる回した。トンボは指の動きに合わせて、頭を回している。
眼を回したトンボは素手でもとれる 。と、ゆうべお父さんは得意げに話していた。
もういいかな、と右手を近づけたとたん、トンボはしゅんっと飛び立った。
「何、今の。トンボが眼回すわけ、ないじゃん。それ完璧迷信。」
いつの間にか後ろに立っていた来次が、人差し指をくるくる回しながら、げらげら笑っている。僕はうつむいて、上目づかいに来次を見上げた。お父さんから聞いた話をぽつぽつしゃべった。
「トンボのとり方はだなあ。奴らは複眼だから、四方八方警戒してるわけよ。だから、君たちのことなんて気にしてません、ってふりして、サッと一振り。」
来次は、二、三歩歩きながら、エアーで虫とり網を振ってみせた。僕はこくりとうなずいた。
今度は絶対、成功させてやる。
知らんぷり、そしてシュッ。だけど、何度やっても、惜しいところで逃げられる。
「手首のスナップ、もっときかせて。近づくときは、気配消して。ああ、集中して。」
気づくと、来次は自分がとるのをやめて、つきっきりになって指導している。最初は素直に聞けたのだが、だんだんもやもやしてきた。
「そんなんじゃ、一生とれないよ。瑶、残念すぎる。」
肩をすくめた「オーマイガー」のポーズ付きだった。何かが急にこみ上げた。
「来次くんはいいよね。ゆっくりながあく、寝られたんだもん。僕みたいに、寝不足じゃないし。」
すらすらと嫌みったらしい言葉が飛び出した。
「は? 瑶、まさか俺の遅刻のこと言ってる?」
来次の射るような目線が、僕を刺した。僕はくっとあごを引いた。怒らせてしまったに違いない。
来次は鼻から息を吸うと、胸を反らせた。
「ちっちぇえやつだなー。」
ちっちぇえやつ......。思わぬ言葉に緊張がほどけた。喉が震え出し、こらえきれずに吹き出した。
「え、俺なんかおもしろいこと言った?」
ほんと、天然っていうか、自己中っていうか。 でも、ちょっといいかも。
笑いを収めたときだ。数メートル先の池のふちに、大きなトンボが止まっているではないか。
切り取られた画像みたいに、そのあたりだけ空気が止まって見える。黒と黄色だけど、シオカラトンボのメスとは模様も違うし、サイズ感も存在感も全然違う。
「ね、来次くん。あれ、でかくない?」
僕のひそひそ声に、来次は目を見開いた。
「オッ、オニヤンマだ!」
来次は手で口もとを覆った。そして、「お前行け」というように、あごをしゃくった。
僕はびっくりして、人差し指を自分に向けた。来次はうん、うん、とうなずく。
深呼吸した。すっと肝が据わった。なるべく見ないようにして、静かに近づいた。首だけで振り返って、来次に目配せすると、来次も親指を立てた。
今だ! サッと斜め切り。オニヤンマは、見事、網にかかった。
「やったな、瑶! すごいぞ!」
来次が飛んできて、網の中のオニヤンマをつかんだ。ゆうに十センチくらいはありそうだ。
ほれぼれ見つめていると、来次は僕の腰のところにかかっている、虫かごの蓋を勝手に開けて、オニヤンマを中に入れた。
「お父さんに見せたいだろ。......じゃ、そろそろ帰ろっか。さすがに暑すぎ。」
来次はすたすた歩き始めた。
「来次くん、いや、来次。オニヤンマの写真、スマホで撮ってよ。あとでちょうだい。」
来次が振り向き、目をしばたたかせた。僕は続けた。
「やっぱり、持って帰ったらかわいそうだよ。ここのほうがきっと生きやすいよ。」
来次の顔に、じわりと笑みが広がった。
「だな。じゃあ......。」
来次は、リュックからスマホと細い油性ペンを取り出した。
「トンボの調査員は、はねに記号を書いて、また放すらしい。それで、もし別のとこでとれたら、トンボがどこまで飛んだのかとか調べるんだって。今日は瑶がオニヤンマとった記念に、書いちゃう?」
来次の日に焼けた額には、汗がきらきら光っている。僕の口もとがほころんだ。
「いいね。」
来次は慎重にオニヤンマを取り出し、はねを押さえると、ペンで「R・Y・O」と書いた。
「来次と瑶とオニヤンマの頭文字。」
「なるほど! R・Y・O。」
今度は僕も、オニヤンマを持ってみた。ばたつく四枚のはねを何とか指で挟みこんだ。指に振動を感じながら、ひすいみたいな緑色の複眼を、堪能する。吸いこまれそうだ。写真もたくさん撮った。
「じゃ、そろそろ放すね。」
「おう。」
一、二の、三、で指を離した。オニヤンマのR・Y・Oは、雲一つない色画用紙みたいな空を威風堂々と滑空し、あっという間に見えなくなった。
また、R・Y・Oに遭遇できるといいね。来次もきっと、そう思っているはずだ。
佐藤いつ子
作家。神奈川県在住。著書に「駅伝ランナー」「ソノリティ はじまりのうた」などがある。