ぽつぽつぽつ。
水滴がほおを打ったと思ったら、突然ザーッときた。
「 雨だ。」
あまねは、はじかれたように走りだした。家を出るときは晴れていたので、かさを持っていなかったのだ。といっても、今も空は晴れている。お日さまがかがやく青空から、雨だけがシャワーみたいに降り注いでいた。
あまねは駅に向かう途中だった。しばらくそのまま走ったけれど、雨はだんだん強くなる。すぐにはやみそうにないので、少しだけ通り沿いのマンションの、軒先を借りることにした。
今日は、おばあちゃんが遊びにくることになっている。
「駅までむかえに行くね。」
おばあちゃんが着く時間を聞いて、あまねはおむかえを買って出ていた。電車の到着時間まで待ちきれなくて、早めに家を出てきたから、時間は十分にあった。
温められていたアスファルトは、むうっとした雨のにおいを放ちながら、みるみる濃いグレーに色を変えていく。
こういうの、何ていったかな?
ふと思い出して、あまねは空と地面を見比べる。
何かの動物の結婚式じゃなかったかな。
おばあちゃんから教わったことがあった。何年か前、夏休みにいなかの家に遊びに行ったときのこと。縁側の椅子で漫画本を読んでいたら、急に雨が降りだした。すると、裏の畑に行っていたらしいおばあちゃんが、ばたばたと帰ってきてこう言った。
「キツネのよめ入りだ。」
ああ、そうだ。キツネだった。
あまねは、すっかり思い出した。お天気雨のことを昔からそういうのだそうだ。
「人間が急に降ってきた雨にあわてている間に、キツネは堂々とよめ入りをしているのかもしれないね。」
そう言われて、あまねは目をこらして雨の向こうを見たのだった。キツネは見えなかったけれど、青空なのに雨が降っている景色は確かに不思議で、首筋がぞくっとした。
思い出にふけっている間に、雨足は弱くなっていた。
無事によめ入りできたかな。
小降りになっているうちに走っていこうと飛び出したあまねだったが、また足を止めた。
あれ?
マンションの前の通りの向こうに、空き地を見つけたからだ。短い雑草が生え、原っぱみたいになっている。
こんなとこあったっけ?
駅のほうにしばらく来ていなかったけど、原っぱなんかなかったはずだ。それなら前は何があったのだろう。
家だったかな。お店だったかな。
記憶はぼんやりとしていた。あったときにはあたりまえに見ていたものが、なくなってしまうと思い出せない。
あまねはまゆを寄せて考えた。何か、思い出しそうな気もした。でもなぜかあまり思い出したくないような気もする。じれったい気持ちになっていると、突然、原っぱの雑草の中から何かがはい出した。白いもの。
「ええっ!」
あまねは思わず声を上げた。
まさか、キツネ?
だが、白いものには長い耳があった。
「ウサギだ。でもなんで?」
あまねは通りを横切り、ウサギのそばへかけ寄った。地面には小さな穴が空いていて、ウサギはそこから出てきたようだ。近づいたあまねからはにげだしもせず、雑草に鼻を寄せて、くんくんにおいをかいでいる。
あまねはそばにしゃがみこんだ。
「あなたの結婚式だったの?」
つい愉快な気分でたずねてみた。すると、頭の上で声がした。
「あ、やっぱりここだった。」
「あれ? 鹿島くん?」
体をひねって声の主を確かめて、あまねは、目を丸くした。そこにいたのは、クラスメートの鹿島くんだったからだ。クラスがえで同じクラスになったばかりだ。
「あ、柴田さん?」
鹿島くんのほうも、自信なさげにあまねの名字を確かめた。
「うん。このウサギ、鹿島くんちのウサギ?」
すると鹿島くんは困ったようにうなずいた。
「うん。こいつ、うちからここまで穴をほってトンネルを開通させたんだ。」
「へえ、すごい。鹿島くんちってどこ?」
「そこの茶色い屋根の家。」
鹿島くんは、ななめ向こうの二階建てを指差した。五十メートルくらいはありそうだ。
目を丸くしながらも、あまねは、それなら鹿島くんは、ここに何があったか知ってるかもしれないと思った。
「よかった。すぐに見つかって。」
鹿島くんはウサギをだき上げた。
「ウサギって穴ほりが好きなんだね。」
「うん。得意技。ここだけじゃないよ。マシュロンはあっちこっちの庭や畑で発見されてる。」
ウサギの名前は、マシュロンというらしい。白くてふわふわのウサギに、ぴったりのかわいい名前だ。
「じゃあ、この辺りの地下は、トンネルだらけなんだね。」
見えないけれど......。
「うん。地下鉄マシュロン線。」
「ははは。」
鹿島くんて、けっこうおもしろい人だ。
「鹿島くん。」
あまねは、すっかり打ち解けた気持ちになって、もう一つの見えないものについて、たずねてみることにした。
「ここって、前は何があったんだっけ?」
すると鹿島くんはあっさり答えた。
「歯医者さん。」
「......あ、そうか。」
あまねは、はっと顔を上げる。記憶のすみがカチッと音を立てた。そういえば幼稚園のころ一度だけ行ったことがある。小さな虫歯ができて削ってもらったのだ。
診察室は消毒のにおいがつんとして、先生の机には、注射器や先のとがった細いドリルみたいな金属が並んでいた。椅子に仰向けになったあまねはにげだしたかったけれど、歯科衛生士のお姉さんに「強いわねえ。」なんてほめられて、必死で我慢をした。すると、口にゴムのカバーみたいなものをかぶせられた。気持ちが悪かったけれど、目をつぶり、こぶしをぎゅっとにぎりしめた。
そしてついに、
「キャーン。」
誰かの悲鳴みたいな音が聞こえてきた。机の上にあったとがったドリルだと思ったら、もう我慢ができなかった。つぶった両目からなみだが勝手に出てきた。治療はすぐに終わったのに、あまねは家に帰るまでずっと泣き続けていた。
すっかり思い出して首をすくめていると、鹿島くんが、不思議そうな顔で聞いてきた。
「柴田さん、結婚式って何?」
「はあ?」
「さっきマシュロンを見て言ってただろう。」
「ああ、あれね。」
あまねは、キツネはお天気雨のときによめ入りをするのだという説明をした。鹿島くんは、ふに落ちないのか、ぽかんとしていた。
キツネにつままれた顔みたいだな。
あまねはこっそり思う。
「おばあちゃんに教えてもらったんだ。」
そこまで言って、あまねははたと思い出した。
むかえに行かなきゃ。
「駅に行くんだった。じゃあね。」
あまねは、鹿島くんに手をふって駅に向かおうとした。けれど、一歩ふみ出した足をまた止めた。
「わあ!」
見上げた空いっぱいに、大きな虹がかかっていたからだ。
赤、青、むらさき、オレンジ......。
「めっちゃきれい。」
こんなにきれいなたくさんの色が、空のどこにかくれていたのだろう。
「おっ、虹だ。」
後ろで鹿島くんも大きな声を上げている。
「じゃあ、また明日。」
あまねはふり返ってもう一度手をふった。
鹿島くんも手をふった。
「うん。学校で。」
あまねは虹に向かって走った。
まはら三桃
作家。福岡県出身。著書に「奮闘するたすく」「たまごを持つように」などがある。