小川さんが、教室の窓を割ったらしい。
ひと昔前の歌詞に出てくるような事件に、みんなが度肝を抜かれた。
しかも、小川さんはクラスでも、一、二を争う、おとなしい女の子だ。
確か園芸部だったはず、一人せっせと校庭の花壇に水やりをしていた姿しか覚えてない、というクラスメートも多いだろう。
この事件に、私は少しだけ罪悪感を持っている。
というのも、彼女を傷つけるようなことを、ついやってしまったから。
「交換日記って何か古風でいいよね。」
アマちゃんの唐突な一言で、私とアマちゃんの交換日記は始まった。
透明な日差しが降りそそぐ、小学六年生の、十二月のことだった。
アマちゃんは猫のように気まぐれで、気位が高く、思いやりに欠ける性格だったが、ぼんやりした私となぜか気が合った。
どうしよう。何にも思い浮かばない。
渡されたウサギ柄のノートを前にして、私の頭は真っ白になった。心臓がばくばくして、学芸会の直前みたいに緊張した。
学校から帰るときも、ご飯を食べるときも、お風呂に入るときも、ずっと何を書けばいいか考えていた。
だから、ご飯を食べるときぼんやりしすぎてお母さんから叱られたし、お風呂では長湯しすぎてまた叱られた。
そもそも宿題の感想文や日記を書くことが苦手だった。学級便りに載ったことも、ましてや表彰されたことも一度もない。
「書くことなんてないよう(泣)。さっきお風呂に入って、髪を乾かしました。お母さんにショートが似合うって言われてるんだけど、長いほうがいいと思いませんか?」
だから三十分も机でうなって、やっと初めての文字を書いたのだ。
緊張したせいか、いつもより筆圧が弱く、右上がりの文字になった。
それに、どうしてか分からないけど、敬語ばかりの文章になってしまった。
これだけじゃ、やばいかも......。
余白がいっぱいできたので、ついでにアマちゃんの似顔絵も大きく付け加えておいた。
次の日、どきどきしながら学校でノートを渡した。私たちは交換日記の存在がばれないように、教室の端にいた。掃除が行き届いていないせいで、ほんのりほこりっぽい臭いがした。
文字数が少なくて、怒られないか不安だったけれど、思いのほか喜んでもらえた。
「イラストすっごくかわいい! 絶対、次も描いて!」
アマちゃんの機嫌がよくなったので、私もうれしかった。算数のテストのある日、アマちゃんの機嫌は最悪になる。急に無視してきたり、肘のぷにぷにした部分をつまんできたりするのだ。本当に、イラストを描いておいてよかった。
アマちゃんは、腕をくっつけて、楽しそうに好きなアイドルのライブに行った話を私に聞かせた。
「ねえ、何の話してるの?」
話の途中で、小川さんが割って入ってきた。誰だってひそひそ話をしているのを見かけたら、自分の話をされていないか不安になる。
小川さんはくぼんだ目を神経質そうに見開いたので、私たちは顔を合わせて意味深に笑った。焦っている人を見るのは純粋におもしろかった。
「卒業式の話? それとも雨田さんの好きなアイドルの話? 確か七人組のグループが好きなんだよね。えっと、誰が好きなの?」
小川さんはおずおずと聞いてきた。彼女には親友と呼べるポジションの人がいなかった。もともと高橋さんというオタクの女の子と仲が良かったけれど、その高橋さんが別の人と仲良くなってしまったらしい。それで、新しい親友として、アマちゃんを狙っているのを、私は気がついていた。
小川さんはちらちらっとアマちゃんの腕の中の交換日記を見やった。
「んーん。たいした話じゃないから。」
アマちゃんはいたずらっぽく笑って、肩をすくめた。それから腕をますますくっつけて、声を落として私に話しかけてきた。小川さんはもの欲しげに私たちを見ていたけれど、しばらくすると自分の席に戻っていった。
ちょっとかわいそうだけど、しかたない。私だって必死なのだ。あと少しの学校生活、惨めに過ごしたくない。惨めとは、友達がいないこと。独りぼっちで過ごすことだ。
すぐに日記が戻ってくると思ったけれど、アマちゃんが学校にノートを持ってきたのは、五日後だった。
「恥ずかしいから家で読んで。」
珍しく顔を赤らめながら言われたけれど、気になったので、十分休みに学校のトイレに持っていって読むことにした。
そこには、小さくてきちょうめんな字が、見ているだけで息苦しくなるくらい、びっしりと並んでいた。句読点も少なくて、すさまじい熱量でアマちゃんがしゃべり散らかす様子が思い浮かんだ。
日記には、もうすぐ卒業でさみしいことや、好きな男の子のこと、漫画の感想、実は詩を作っていること、小さかった頃の最初の記憶などが、思いつくままに書いてあった。
私の髪型についての返事はなかった。ショートとロング、どちらがよかったのだろう。
家に帰ってから、私はまた交換日記を読んだ。
そうして、シャーペンを手にして、新しいページを埋めた。
一回目より時間はかからなかった。
「アイラブユー!」と大きく書いて、余白をイラストで埋めたのだ。
アマちゃんが、アイドル衣装みたいにふりふりのワンピースを着ているイラストだ。
さらに華やかにするために、ラメ入りの星や猫のシールでデコレーションした。
私たちは、みんなにばれないよう、教室の白いカーテンにくるまって、交換日記のイラストを眺めていた。アマちゃんの顔とカーテンの白しか見えなくて、二人だけの世界にいるみたいだった。イラストは「うまい」と好評だった。
ふいにカーテンがぐっと引っ張られた。お調子者の男の子が、ちょっかいをかけにきたのかもしれない。彼らは驚くほどデリカシーを欠いているのだ。私はノートを背中に隠して、きっとした表情を作った。
「ねえ、知ってる?」とカーテンの内側に強引に入ってきたのは、何と小川さんだった。
私はがくぜんとした。小川さんが、ここまで空気の読めない人だとは知らなかった。アマちゃんも「信じられない」と言いたげな顔をしていた。
小川さんは、私たちの雰囲気に気がついていないのか、顔を紅潮させて話しかけてきた。
「副担任の菊田先生、来月学校辞めるんだって! 急だよね。びっくりしたから、すぐに知らせたくって......。」
私たちはしらけて顔を見合わせた。その情報は、半年前に手に入れていた。
「そうだよ。お父さんが亡くなったから、実家の豆腐屋を継ぐんだよ。創業百二十年の老舗だから、先生の代で終わらせたくないんだって。ちなみに結婚の予定もあるんだよ。」
私はちょっとばかり残酷な気分になって、先生の情報を詳しく伝えた。
「あっ、そうなんだ。それは知らなかった。」
「ほかに用件は?」
動揺の色を見せる小川さんに、アマちゃんが鋭くたずねた。
「ないよ。急にごめんね。」
小川さんは急におどおどとした態度になって、カーテンから抜けていった。
いちど意地悪な気分になると、なかなか切り替えられなくなる。
「なあに、あれ。」と言って私たちは笑った。たぶん、小川さんの耳にも届いていたと思う。
その日から、小川さんは、私たちに近づかなくなった。
潔く休み時間は一人で過ごすようになったし、登下校も一人でしているようだった。時間を持て余しているせいか、一日に何度も校庭の花に水をやり、とうとう枯らしてしまっていた。おかっぱ頭の後頭部と、丸まった背中からは、言いようのない哀愁がただよっていた。
私たちの交換日記は粛々と続いていた。アマちゃんは自分語りと自作ポエムを書き散らし、私はイラストを描いて、文章が書けないことをごまかし続けた。言葉が思いつかないことがばれたら、中身の薄い人間だと思われるかもしれない。
途中から、アマちゃんの一方的な感情の放出を受け止めることも、イラストを描くことも、面倒くさくなってきたけれど、終わらせたいと言う勇気もなかった。
交換日記がなくなったのは、冬休みが明けてすぐだった。
音楽室で、卒業式で歌う「蛍の光」を練習した後だった。教室へ戻ると、引き出しにしまったはずの、ノートがなくなっていたのだ。いくら探しても、教科書と文房具しか出てこなかった。
私は直感的に、犯人は小川さんじゃないかと思った。小川さんを見ると、何食わぬ顔で一人席に座って読書していた。どこかに日記を隠したのだろうか。
別に交換日記を盗まれるくらい、痛くもかゆくもなかった。もう飽きていたから。
けれど、アマちゃんのことを思うと、おなかがきりきりと痛んだ。機嫌が悪くなって、肘を引っ張ってくるかもしれない。
私はアマちゃんにノートがなくなったことを報告した。
「ありえないんですけど! あそこにあたしの全部が書かれているんだよ! ちゃんと探したの? もう一回よく見てよ。」
「う、うん......。心当たりがあるから、探してみる。」
アマちゃんは顔を真っ赤にして、私の二の腕を引っ張った。怒っているから、痛覚のあるところを選んだのだ。
痛たたた、とつぶやきながら、私はアマちゃんに謝り続けた。
小川さんのことは言えなかった。ほかの人に見られたと知ったら、もっと怒っただろうから。
小川さんがこちらを見ていた。私と目が合うと、気まずそうにそらした。
やっぱり、盗んだんだ。
タイミングを計って、小川さんに声をかけたのは放課後になってからだった。
小川さんは校庭の隅っこで、膝を抱え、枯れたパンジーを悲しそうに眺めていた。
「あのさ。」と話しかけると、小川さんは大げさにびくんと体を震わせた。
「えっ? 何?」
「勘違いしてたら悪いけど、私とアマちゃんの交換日記知らない?」
「うん、知らないけれど......。」
「じゃあ、ランドセル調べさせて。」
「ええ? ちょっとランドセルは、その、ごめん無理。」
小川さんはランドセルを引き寄せて、警戒している小動物みたいに私を見上げた。
「貸しなって。」
「やめて。」
私は小川さんを押しのけて、無理やりランドセルを開いた。塾にでも通っているのか、学校に関係ない教材も入っていて、ぱんぱんに膨れあがっていた。
「ほら、やっぱりあった。」
私は水戸黄門みたいにウサギ柄のノートをかざした。
「......ごめんなさい。」
「どうしてこんなことしたの?」
小川さんの黒目が泳いで、ぶわりと涙が膨れあがった。
「えと、その、あの、ええと。」
泣きながら「えと」「その」を繰り返されているうちに、私はどうでもよくなってしまった。
「もういいよ。」と乱暴に言葉をさえぎった。
「もうしないでね。」
「うん、絶対にしません。」
三日後、体育の授業中、小川さんは一人教室に残って、窓ガラスをたたき割ったらしい。
グラウンドから戻ると、教室の入口に黄色のテープが貼られてあって、中に入れなくなっていた。隣のクラスの女の子が唾を散らすように「小川さんがやったんだって。」と教えてくれた。肝心の小川さんは早退したそうだ。
私は交換日記と今回の事件が結び付いているような気がしてならなかった。
教室は、一時的に封鎖され、しばらく空き教室で授業を受けることになった。国語と理科の授業は、自習の時間に変わり、教室は非日常の興奮に包まれていた。
窓が補修され、教室が元どおりになっても、小川さんは学校を休み続けた。
「思い出のある教室が、卒業式前に壊されて、みんな、とてもショックだったと思う。先生も、たいへん残念でした。人の口に戸は立てられないというか、誰がやったか、すごい勢いでうわさが広まっているのも知っている。みんなにお願いだ。誰がやったとか、教室が壊されたとか、言いふらさないようにしてくれ。最近、一度でも過ちを犯した人は戻りにくい社会になっている。けれど、みんなはまだ小学六年生だ。小川さんを、温かく迎え入れてあげよう。」
担任はそう話すと、色紙を持ってきた。
クラス一人一人に色紙は回り、励ましとか、注意とか、許しとか、そういう言葉を書いていった。
やがて私にも順番がやってきた。
半分ほど埋められた色紙を見て、頭が真っ白になった。
「ガンバレ」
私が書いたのはそれだけだった。薄く書いた四文字は、風が吹けば飛んでいきそうなくらい弱々しかった。
アマちゃんは、一生懸命いろいろ書いているみたいだったけれど。
全員が書き終わると、先生は私をみんなの前で呼んだ。
「悪いけれど、小川さんの家に持っていってくれないか? こういうのは、クラスメートが来たほうがうれしいだろう。お前が小川さんと話しているの、何回か見たことがあるんだ。」
授業が終わると、私は一人で小川さんの家に向かった。
チャイムを押すと、人懐っこそうなおばさんが出た。事情を説明すると、喜んで家にあげてくれた。おばさんはこちらが口を挟む隙も与えないくらいしゃべり続けた。
小川さんは二階の子供部屋にいた。教室を破壊するときにけがしたのか、手に包帯を巻いている。ベッドの上で、青い顔をしていた。
「渡せって言われたから。」
私は色紙をさっと手渡した。
「いりません。」
「もらってくれないと、私が困る。」
小川さんは、無感動に色紙を眺めて、ため息をついた。
この色紙の言葉たちが、小川さんを救ってくれないことくらい、分かっている。何の意味もない紙切れだ。みんな適当に書いたのだから。
「もう学校来ないつもり?」
「うん、春から遠くの私立に通うし、もういいかなって。」
「そうなの。」
私はどうして窓ガラスを割ったのか、聞けなかった。
実は見てしまったのだ。
交換日記のいちばん後ろのページに、見慣れない文字があったこと。書いては消されて、書いては消されてを繰り返したのか、文字というよりただの灰色の汚れみたいになっていた。
どうして私たちには、自分を語る言葉がないのだろう。誰かに聞いてほしいという気持ちはあるのに。
だから、我の強いアマちゃんと仲良くなりたいと思ったのかもしれない。
きっと私たちの胸の中では、言葉にならなかった思いが、ゆっくり腐っている。本当に惨めなことは、独りぼっちになることじゃない。その正体に、私はうすうす気がつき始めていた。
帰り道、私はふらりと児童公園に寄った。
木の棒切れを持って、土の地面に突き刺す。
「わたしはさみしい」
そう書いてみて、いや違う、と首を振る。アマちゃんがいたから、さみしくはなかった。木の先端で、ごしごしと消す。
「わたしはくるしい」
ちょっと近いかな? でも大げさかもしれない。またごしごし消す。
「わたしはくやしい」
「私は悔しい。」と口にしてみると、意外なくらいしっくりきた。
そうだ。私は悔しかった。
言葉を持っていなくて。聞いてもらえなくて。
胸の中が少しだけ軽くなった。百パーセント胸の中のもやもやを書けたわけでないけれど、なかなかいい言葉を見つけられた気がする。
この文字は明日にでも、子供の足に踏まれて、すぐ消えてしまうだろう。
自分だけのノートが欲しい。交換日記じゃない、私のためのノート。私が、私を救うためのノート。
「私は悔しい。私は悔しい。」
忘れないようにつぶやきながら、私は文房具屋に向かって歩き始めた。
桜井かな
2023年、第1回「青いスピン」作品募集 佳作。