「やめんか。」
頭の上から、じいさんのどなり声が聞こえた。思わず首をすくめた。見上げると、アパートの二階の窓から、じいさんがにらみつけていた。
「ネコをいじめるんじゃない。」
じいさんのしわがれた大声が、追い打ちをかけてきた。ぼくたちはランドセルを鳴らしながら、一目散に逃げだした。
ぼくたちは三人がかりで野良ネコのカタメを追いかけ回していたのだった。カタメは白と茶のまだらのネコだった。右目は半開きで、にごったような黄色をしていて、黒目がなかった。カラスにちょっかいを出して突っつかれたんだろう、と友達は言っていたが、本当かどうかは分からなかった。実際、カタメがいつからぼくたちの通学路に現れるようになったのか、だれもはっきりとしたことは分からなかった。いつのまにか、カタメはじいさんのおんぼろアパートの周りにいて、ブロック塀の上で昼寝をしたり、頭をかいたりして過ごすようになっていた。
三年生のころ、ぼくたちは学校帰りにカタメを追いかけて遊んでいた。追いかけられると、カタメは泡を食って逃げるのだが、片目のせいで遠近感がつかめないらしく、塀に飛び損ねて頭から落ちたり、曲がりきれずにドブに転げ落ちたりした。ぼくたちはそんなカタメのしぐさをおもしろがっていた。
そんなぼくたちの天敵がじいさんだった。じいさんはカタメを自分の部屋に自由に出入りさせていたし、えさもやっていて、いわば保護者の立場だった。短く刈りこんだごま塩頭で目尻には深いしわがあったが、体はがっしりとしていて背筋もぴんとのびていた。
「元刑事らしいぜ。」と友達は言った。
テレビの影響もあって、刑事という言葉には特別なひびきがあった。
「つかまえたらただじゃあすまないぞ。」
じいさんはアパートに一人で住んでいて、夜は警備の仕事をして暮らしているのだった。ぼくたちが学校帰りにアパートの前を通るころが、目覚めの時間らしく、ステテコ姿のじいさんによくどなられた。
ばかもの。さわぐんじゃない。塀に登るな。石を投げてはいかん。そして、ネコをいじめるな。
確かにじいさんはカタメには優しかった。アパートの前の道にしゃがみこんで、ちくわを手でちぎりながら、話しかけているのを何度も見た。ぼくたちを見ると、耳を寝かせてうなり声を上げるカタメも、じいさんにえさをもらっているときは、ぺしゃりと座りこんで、じいさんの手を追っていた。
あの日、ぼくは何かの当番だったのだと思う。友達は先に帰ってしまっていて、一人でぶらぶらと歩いていた。アパートの前を通りかかると、じいさんに強い口調でまくし立てているおばさんがいた。どうやらカタメが爪で車に傷を付けたらしい。じいさんはぺこぺこと何度も頭を下げ、口ごもるようにわびていた。
ぼくは聞こえないふりをして、二人の横を通り過ぎた。どなるんじゃなくて、謝るじいさんを見たのは、初めてだったので、何だか切ないような妙な気分になったのだった。
アパートを過ぎて小路まで行くと、カタメの鳴き声が聞こえた。カタメは何だかしょぼくれた顔をしていた。自分のことでじいさんがおこられているのを、知っているかのようだった。手提げ袋の中には残した給食のパンと、袋入りのマーガリンが入っていた。弟はマーガリンが好きなのでときどき残してやるようにしていた。ぼくはパンをちぎって、大サービスでマーガリンもぬってやった。カタメはおそるおそる寄ってきて、パンのにおいをかいでから、よほど腹が減っていたのだろう、ものすごい勢いで食べ始めた。マーガリンが付いたぼくの指を、ぺろぺろとなめてさいそくした。食べ終わると小声で鳴き、目を細めて顔を上げた。のどをさすってやると、カタメはうっとりとした表情で、ゴロゴロとのどを鳴らした。
「喜んでいるだろ。」
ふり向くといつのまにかじいさんが後ろに立っていた。
「優しくしてやればネコだって分かるんだ。」
じいさんはぼくの横にしゃがみこんで、いつもとは全然違う声で話し始めた。
「こいつはな、夜勤明けの朝に、公園で目から血を出して、たおれていたのを連れてきたんだ。どうして目をけがしたのかは分からん。鳥に突っつかれたのか、間違って枝の先で突いてしまったのか。だがな、ネコはすばしこくて用心深い。特にこいつのような野良は用心深くなくては生きてはいけない。分かるか。」
ぼくがだまっていると、じいさんは続けた。
「動物病院に連れていった。先生は、傷は鋭いもので突かれてできたようだと言った。考えたくはないが、人にやられたのかもしれない、と。」
じいさんはそこまで言うと、しばらくだまった。
「もしそうならば、そんなことをするやつは、人間として最も低級だ。そう思わんか。」
頭の中に子ネコだったころのカタメの姿が浮かんだ。ソファの上で両方の大きな目をしっかり開け、キュウキュウと小さな声で鳴いて、ぼくを見上げていた。
「はい。」とぼくは答えた。他人の声みたいだと思った。
「病院からの帰り道、こいつを抱いていると、体温が伝わってきた。こいつには目を傷つけられた理由なんか、どうでもいいんだろうな、と思ったんだ。片目しか見えないことを淡々と受け入れているんだろうってな。」
じいさんは何だかさびしそうにそう言った。
「だから、優しくしてやってくれ。」
それから、ぼくはカタメを追いかけ回すのをやめた。じいさんに言われたこともあったが、それ以上に、ちぎってやったパンを、一生懸命に食べて、うっとりとするカタメをかわいいと思ったからだ。
ぼくがパンをやるようになると、友達もすぐにそれにならった。優しさは伝染するものなのだと思う。だれが始めるか。それだけのことだ。
給食で出る光りかがやくような魚肉ソーセージまで、残してくる友達もいた。パンより先にソーセージを食べるカタメを見て満足そうに「残してきたかいがあったよなあ。」と言った。
冬の日、帰り道にじいさんが立っていた。
「ネコが三日前からいなくなったんだが、知らんか。」と心配そうに言った。
ぼくらは早速手分けして近所を探すことにした。翌日も、その翌日も探した。探すだけじゃなくて「片目のネコを知りませんか」という手描きのポスターを作って、電信柱に貼った。ポスターのカタメの似顔絵は、右目をリアルに描きすぎて、まるでギャングのオオカミのような顔だった。
日曜日には、一日かけて、となり町の水路や竹やぶまで探し回った。ときどきネコを見かけるのだが、どれもカタメではなかった。そのたびに少しずつがっかりして、どのネコでもなく、カタメというネコに会いたいのだ、というあたりまえのことが、体に染みこむように感じられるのだった。夕方になると、歩き疲れて言葉もなくなっていた。ぼくたちはだまってじいさんのアパートに向かった。影が長くのびて見えた。一人がべそをかくと、それにつられてぼくも涙が止まらなくなった。取り返しのつかないものをなくしてしまった、と生まれて初めて痛切に感じたのだった。
アパートの前にじいさんがいた。カタメの帰りを待っているんだと思った。どこにもいない、とぼくは小声で話した。半べそ顔のぼくたちを見て、じいさんは目を閉じ、ため息をついた後、そうか、とぽつりと言った。いつのまにか、じいさんの目にも涙が浮かんでいて、それを手の甲でぬぐってから、「ちょっと、寄っていかんか。菓子がある。」と言った。
ぼくはどう答えたらいいのか分からなかった。迷った末に、首を横にふった。
数日後、校門を出たところにネコを抱いたじいさんがいた。カタメだった。
ぼくたちはじいさんにかけ寄り、カタメの手や足や尻尾を引っ張って、頭をなでた。カタメは迷惑そうに、じいさんのうでの中で、もがいていた。ぼくたちに早く知らせるために、じいさんは校門で待っていてくれたのだった。
「今朝、ひょっこり帰ってきたんだ。」とじいさんはうれしそうに言った。そして「みんな、ありがとうな。」と言った。
ぼくたちはカタメと遊びながら小学校に通い、中学生になった。通学路が変わり、前ほどカタメと会うことはなくなった。たまに会うと、いつのまにか貫禄が出てきたカタメに話しかけてしばらく遊ぶ。
二年生になる春休み、のんびりと過ごしていた日、ぼくは取り返しのつかないものを失うという感じを再び味わうことになった。
コミックスを買うために本屋に行く途中、アパートの前を通りかかると、じいさんの部屋から荷物が運び出されていた。息子らしい中年の男が運送屋さんに指図していて、部屋のドアにはセロハンテープで、人が亡くなったことを示す「忌中」の札が貼られていた。
カタメはいなかった。きっとアパートの先の小路にうずくまっているのだろうと思った。ぼくはアパートを見上げながら、部屋に寄っていけ、と言ったじいさんの表情を思い出した。
あのとき、じいさんは外でカタメの帰りを待っていただけじゃなかったんだ、とふと思った。自分では食べもしない菓子を買って、ぼくたちを待っていてくれたんじゃないか。じいさんはたとえ子供相手でも、カタメについていっしょに話す相手が欲しかったんじゃないか。カタメのしぐさについて、鳴き声について、好物について、何かをいっしょに話す相手が欲しかったんじゃないか。なぜうなずくという簡単な動作ができなかったのだろう、と思った。だがもう、そんなことはどうでもいいことになってしまった。
これからは少し遠回りでもアパートの前を通ろう。じいさんの代わりはできなくても、ひもじいときのカタメに食べ物くらいはやれるだろう、そしてのどをなでることくらいのことはできる。
そのとき、ポケットの中の小銭はかまぼこ一本を買うには十分だった。ぼくは、コミックスは友達に借りることにして、角のコンビニに向かって歩き始めた。
松下卓
2023年、第1回「青いスピン作品募集 佳作。