十九点。
ランドセルから算数のテストを取り出した大地は、窓のあみ戸を開けてため息をついた。
二階にある大地の部屋の窓からは、裏の家と、青の絵の具のような九月の空が見える。
大地は六年生になって痛感した。勉強が難しい。テストの点数は急下降。母の美里に見られてはいけないテストばかりが増える。むしゃくしゃして、くしゃくしゃにテスト用紙を丸めた大地は、部屋のごみ箱に放り投げた。
「いやいや! これはすぐばれるって。」
自分につっこみを入れて、大地はごみ箱から丸めたテスト用紙を拾い上げる。
「ピッチャー高橋大地、テスト球を投げたあ。」
やけになった大地がテスト球を投げると、学習机のシーサーの置物に命中。みごとにたおれた。
「おお、すげえ!」
思わぬ好投に、大地は気分を良くする。
今度はうでをぐっと体の後ろに引いて投げる。すると、テスト球は開けっ放しにしていた窓から、すいっと出ていってしまった。
「うわあっ! テストが!」
窓から下の方を見ても、何も落ちていない。あせった大地は、家の外へと飛び出した。
「十九点はやばい! 名前も書いてるのに。」
体から冷やあせがふき出るのを感じながら、大地は、二階建ての家の周りを探し回った。
四十分後、かたを落として自分の部屋にもどった大地は目を疑った。
「ええっ、何で!?」
目の前の床に落ちているのだ。今、必死に探していたテスト球が。
丸めてしわしわのテストを広げると、青ペンで解説が書かれていた。ばつの問題全てに。
「何これ、すごっ! だれがこんなこと?」
大地は、自分の部屋から数メートル先にある裏の家を見た。二階の窓は閉まっているが、外側に手すりが取り付けられている。テスト球が窓に当たり、手すりの底が受け皿になったのだとしたら、この青ペン文字を書いたのは――。
夕食時、大地は美里に疑問をぶつけた。
「裏の家に住んでる人? 永野さんだけど。」
「永野さん?」
「娘さんの光ちゃん、同じ六年生じゃないの。」
美里はその永野光の母親と知り合いらしい。
一年前、裏の一戸建て住宅に引っこしてきたのが永野家だと大地に説明する。
「あ! 思い出した。眼鏡かけてたっけ。でも、全然学校で見かけないんだよな。」
「光ちゃんね、今、学校には行ってないのよ。」
へえ、と答えた大地は内心おどろいていた。
食後に自分の部屋にもどった大地は、美しい青ペン文字が書かれたテストをじっと見た。
ばつばっかりだった文章問題では、理解しやすいように図までかかれている。
「永野光が、本当にこの青ペンさん......?」
大地はノートを一枚ちぎると、できるだけきれいな字で手紙を書き始めた。
「青ペンさん、ありがとう。分かりやすいです。またお願いできますか? 高橋大地」
おれってずうずうしい、と自覚しつつも、大地は青ペンさんの正体を知りたくてしかたがない。
大地は手紙を丸めると、永野家の窓手すりの内側に落ちるよう、そっと投げ入れた。
ふろから上がると、さっき投げたばかりの手紙がもう部屋にもどってきていた。
大地はどきどきしながら、しわになった手紙を開く。返事もやっぱり青ペン文字だ。
「いいですよ。でも丸めて投げないで。テストも手紙もかわいそう。それに高橋君が投げたのは、ときどきしか入らない物置の窓です。次からは永野光あてでポストに入れてください。」
やっぱり青ペンさんは永野光なんだ!
推理的中の喜びと注意された気はずかしさで、大地は今にも走りだしたい気分だった。
大地と青ペンさんのやりとりは毎日続いた。
難しい問題は、青ペンさんが作ったもふもふした犬のキャラクターが漫画仕立てで解説してくれて、あきない。
次第に、大地と青ペンさんは余白にメッセージを書き合うようになった。
「この犬のキャラって、何犬?」
大地の質問に、翌日、青ペンさんが答える。
「別に犬種とかないよ。テスト直しの犬だから『しけん』でいいんじゃない?」
さらにその翌日、大地が意見する。
「『試験→試犬』って、だじゃれか(笑)。それなら、『大冒険』の『冒犬』のほうがよくない?」
「『冒犬』、いいかも。名前はアオがいいな。」
「青ペンだしね。『冒犬』アオ、いいと思う!」
こんなやりとりが続いたある日、大地はテストとは別の紙に、少し長いメッセージを書いてみた。
「何で学校に来ないの? 青ペンさんみたいに勉強ができたらテストにも困らないし、学校に来るの、楽しいと思うんだけど。」
翌日、大地はポストに届いた返事を見て、さあっと全身から血の気が引くのを感じた。
大地が書いたメッセージの上には、青ペンで大きなばつが何度も重ねられていた。筆圧のせいか、紙はあちこち破れてしまっている。
青ペンさんを傷つけてしまった......!
大地はすぐさま手紙で謝った。「勝手なことを言ってしまってごめんなさい。」と。でも、それっきり返事はない。大地には、まるで世界から色が消えてしまったかのように思えた。
五日後、信じられないことが大地に起こる。
「算数九十六点! 大地、すごいじゃないの!」
「......うん、まあ。」
返されたテストの点数に、美里は大喜びだ。日々、青ペンさんの解説を読んで問題を解き直すうちに、大地は自然と勉強のこつを身につけていた。
大地もうれしい。でも、青ペンさんに報告できないのかと思うと、胸がぎりっと痛んだ。
十月最初の日曜日、大地はあまりの暑さで目が覚めた。ふと時計を見る。もう九時を回っている。
キッチンに美里の姿はない。テーブルにはサンドイッチと「町内運動会の係で夕方まで出ています。」と書かれた置き手紙がある。
美里からは大地も参加しなさいと言われたが、絶対にいやだと言い張ったのだ。
自分の部屋にもどりベッドにダイブした大地は、エアコンをかけ、またねむりに落ちた。
二時間後、大地は突然むくっと起き上がる。
「今の何?」
コツッと窓に何かが当たった気がした。
窓の下を見ると、何かがたくさん落ちている。丸いものや細長いものが十個以上も。
「何だ、あれ?」
外に見に行くと、落ちていたのは雑誌を破って丸めたものや紙飛行機にしたものだった。
はっとして、大地は裏の家を見上げる。
前にテストを投げた二階の窓が開いていた。
大地は不思議に思った。永野さんは手紙に書いていたはずだ。テストも手紙も投げないでって。その永野さんが何でこんなことを?
「あの......永野さん? 永野さん!」
大地は永野家の二階の窓に向かって声をかけた。返事はない。今度は玄関に回ってチャイムを二回鳴らす。やっぱり応答はない。
「そうか、家の人は町内運動会だよな。」
大地は考えをめぐらせる。まさか永野さん、物置に閉じこめられてる? あの窓は小さくて脱出は無理だ。雑誌を破ってあんなにたくさん投げてきたのは......助けてってこと?
ぽたり、と大地の額からあせが流れ落ちる。
「暑い......本当に十月かよ。」
この暑さ、物置の中ならなおさら――。
いやな予感に背中をおされ、大地は全速力で走りだした。
町内運動会が行われている小学校に着くと、たくさんの人であふれていた。大地にはだれが永野さんの家族なのか全く分からない。
大地は、競技準備中の運動場の真ん中へかけこむと、勇気をふりしぼってさけんだ。
「助けてください! だれか今すぐ助けて!」
十一月に入った土曜の朝、大地は起きぬけに、牛乳を買ってくるよう美里にたのまれた。
「行ってきまーす。」
イチョウ並木の住宅街を自転車で走りながら、大地はあの日のことを思い出していた。
大地が運動場で助けを求めたあの日、永野さんは物置で熱中症になりかけていたところを助けられた。ドアノブがこわれて、中から出られなくなっていたらしい。
数日後、永野さんと母親がお礼に訪れた。
大地はたまたま外出中だったが、永野さんが書いてくれた手紙を受け取った。
手紙は白い便箋に青ペンで書かれていた。
「高橋君へ
ずっと高橋君がうらやましかったです。勉強教えてって急にたよってきたり、高橋君は『助けて』が言えるよね。私にはできないことだったから。でもあの日、初めて『助けて』を伝えることができたのは、高橋君のおかげです。助けてくれてありがとう。
追しん
両親と話し合ってフリースクールに通うことになりました。あの日から毎日が」
「毎日が」の続きに文字はなく、そこには、「冒犬」アオのイラストがかかれていた――。
「......冒険、みたいな毎日......なのかな。」
つぶやきながら大通りに出た大地は、ふと自転車のブレーキをかける。通りをはさんだ向かい側のバス停に、永野さんが立っていた。
「永野さん!」
永野さんの口が「あ」の形になる。
「あの、よかったら、また......分からない問題、教えてもらえるかな? 青ペンさんに!」
大地の言葉をかき消すようにやって来たバスに、永野さんは無言で吸いこまれていく。
がっかりしていると、窓側の席に着いた永野さんが両うでを上げて何かを表している。
朝の陽光を受けてきらめくバスの窓を、大地はじっと見た。
永野さんは、両手で大きな丸を作っていた!
大地は顔をほころばせて、小さくなっていくバスに大きく手をふり続けた。
豊田愛
2024年、第2回「青いスピン」作品募集 佳作。