野球場から、わっと歓声が上がった。
「あ、たいへん! 試合、始まっちゃってる。良太、急いで。」
お母さんが振り向いて、ぼくをせかした。窓口で、ユニフォームを着た高校生のお兄さんからチケットを買うと、お母さんはコンクリートの階段をかけ上がっていく。ぼくは、しぶしぶその後をついていった。
今日は、夏の高校野球の地区予選一試合目。高校三年生の兄ちゃんが、この試合に出ている。
「一回の裏だ。0対0ね。うんうん、おさえてる。」
お母さんが、得点表を見て、うなずいた。
「ふん、どうせ負けるにきまってるよ。」
ぼくが鼻を鳴らすと、お母さんはこわい顔でにらんだ。
「なんてこと言うのよ。健太が毎日朝早くから練習がんばっていたの、良太だって知ってるでしょ?」
「知ってるけど。」
兄ちゃんが通っている高校の野球部は、正直強くない。いつも一回戦負けだ。
「お母さんだって、これが最後の試合だと思ってるんじゃないの?」
そう言いたかったけれど、言葉をのみこんだ。早起きが苦手なのに、毎日五時に起きて、朝練に行く兄ちゃんのために、張りきってお弁当を作っていたのを知っているからだ。今日だって、大きな飾り文字で「勝利!」って書いた手作りのうちわを持ってきている。
「さ、応援するよ。」
お母さんは、内野側の応援席に座ってメガホンをポカポカたたき始めた。
「健太あ、がんばれえ!」
前に座っていたおじさんが、びっくりした顔をして振り返った。ああ、恥ずかしい。
本当は、応援に来たくなかった。今日の朝、兄ちゃんとけんかしたばかりだったからだ。ぼくが悪いんじゃない。
昨日、お母さんは「暑苦しいから。」って、ぼくの髪をバリカンでかった。そのとき、バリカンの設定を間違えて、いつもより短いつんつるのぼうず頭になってしまったのだ。
「いいじゃない、すずしそうで。まだ小学生なんだし。」
お母さんは笑ってごまかしたけれど、ぼくは泣きたくなった。小学生っていったって、もう五年生だ。月曜日、学校でみんなに笑われるにきまっている。切ってしまった髪の毛はすぐには元にもどらない。絶望して、鏡の前で何度もため息をついた。
昨日、練習で帰りがおそかった兄ちゃんは、今朝、トイレの前でぼくの頭を見るなりげらげら笑った。
「うっわあ、頭が青い! 一休さんだ。」
ぼくは腹が立って、兄ちゃんの左足のすねを思い切りけ飛ばした。兄ちゃんは、一瞬、痛そうな顔をしたけれど、すぐにけろっとして、
「おまえのけりなんか、『へ』でもねえよ。」
と、ぼくのおなかにがつんとボディブローをくらわせた。
それから「ばあか。」と言うと、すぐにかばんを持って、家を出ていった。痛くて、くやしくて、ベッドの中でふとんをかぶって、しばらく泣いていた。
「自分だって、ぼうず頭のくせに。兄ちゃんなんか、大きらいだ。こんな試合なんか、負けちまえ。」
相手のチームは、全国大会に出場したこともある強豪校だ。席がうまるほど応援する人たちがたくさんいて、にぎやかだった。
黒い学生服に、はち巻きをした応援団が、金色の管楽器の音楽に合わせて応援歌を歌い、きらきらのぼんぼんを持ったチアリーダーが、おどったりはねたりしていた。
かたや、兄ちゃんの学校の応援は、選手の身内らしき家族連ればかり。観客席もがらがらだ。すでに、応援で負けている気がする。
兄ちゃんは、ピッチャーだ。
「うちは部員が少ないから、ピッチャーできるやつがほかにいないんだよな。」
前に、兄ちゃんが話していた。
相手のチームみたいに補欠がたくさんいるわけじゃないから、最後まで一人で投げきらなければならないのだ。
勝てるわけがない。
と思っていたけれど、兄ちゃんは四回まで切れのいいピッチングで、相手チームを0点におさえている。何度か外野に球が転がって、ひやっとしたけれど、兄ちゃんのチームの選手もファインプレーでがんばっている。
兄ちゃんのチームにも、まだ得点が入らず0点のままだ。
これは、もしかしたら勝てるかも。
ぼくは、兄ちゃんのチームのがんばりを見て、ちょっとだけ勝利を期待し始めていた。
汗が目の横を流れる。ハンカチを取ろうとして、ズボンのポケットに手をつっこんだら、忘れていたものが出てきた。
今朝、兄ちゃんに渡そうとしていたお守りだ。近所の神社の「勝ち守」。黒いふくろの真ん中に、赤い龍の絵と「勝」の文字が入っている。いかにも強そうで、勝負事に勝てると評判だ。
「結局、渡しそびれちゃったな。」
五回裏から、兄ちゃんのピッチングは急にコントロールが悪くなった。なかなかストライクがとれない。
七月の太陽が、じりじりと照りつける。暑そうだ。兄ちゃんは、マウンドでゆっくりと汗をぬぐう。つかれているみたいだった。
満塁。アウトはまだ一つ。
──カキーン。
高い音がひびいた。
相手のバッターが打ったボールが、観客席のネットの方まで飛んだ。ぼくは、息をのんで小さなボールを目で追いかけた。
ホームラン!
わあっと、相手の高校の応援が盛り上がった。相手チームに四点が入った。
「やっぱり、だめか。」
ぼくは、止めていた息をふうっとはいた。
そのとき、マウンドの兄ちゃんが、足の付け根の辺りをさすっているのが、目に入った。足を曲げたり、のばしたりしている。
「健太、足でも痛いのかしらね?」
お母さんが、首をかしげている。朝、ぼくがけったほうの足だ。
「まさか、あのとき?」
ぼくは、いのるようにお守りを両手でぎゅっとにぎりしめた。
負けるな。がんばれ、兄ちゃん。
「兄ちゃん、がんばれえ!」
自分でも不思議なくらい、大きな声が出た。兄ちゃんが、ぼくたちがいる方を見た。
「健太あ!」
お母さんも、はでなうちわを振り回しながら、大きな声でさけんだ。
「兄ちゃん、がんばれえ!」
兄ちゃんに、聞こえますように。力を出せますように。そう気持ちをこめた。
相手チームの応援が盛り上がっていたから、ぼくたちの応援はおそらく聞こえていない。それでも、ぼくはありったけの声で応援した。
その後も、兄ちゃんのひどいピッチングは続いた。ぼろぼろだった。
結局、五回裏に十点を入れられて、コールド負けになった。
試合終了のサイレンが鳴る。
兄ちゃんは、その場でうつむいていた。
遠くてよく見えなかったけれど、泣いていたのかもしれない。チームの仲間が、兄ちゃんの所にかけよってきて、優しく肩をたたいている。整列して、あいさつをした後に、ぼくたちのいる観客席の前に並んで帽子を取った。それから、観客に向かっておじぎをした。
「ありがとうございました!」
拍手が起きた。
兄ちゃんにとって、高校最後の試合。
弱小チームだけど、毎日一生懸命練習していたこと。
ぼくは、兄ちゃんをほこらしく思った。
だから、精いっぱい拍手をした。となりを見ると、お母さんは、汗まみれでなみだを流していた。
試合の後、野球場の外で帰り支度をしていた兄ちゃんは、ぼくに気がつくと白い歯を見せて、にっと笑った。
「コールド負けなんて、情けねえよな。」
「うん。でも、いい試合だった。」
「まじで? おれは後悔だらけだけど。」
「うん。ぼくも。」
兄ちゃんは、ははっと笑った。
「何で、おまえが?」
「朝、足をけったこととか、ごめん。」
「なんだ。言っただろ。おまえのけりなんて、効かねえよ。」
「でも、足、痛そうだったじゃん。」
「関係ねえよ。」
そう言うと、兄ちゃんは、ぼくのつるつる頭をぽんとなでた。
「兄ちゃん、これ。もうおそいけど。」
ぼくは、くしゃくしゃになったお守りを兄ちゃんに差し出した。
「サンキュー。」
兄ちゃんは、ちょっとさみしそうに笑って、受け取った。
「学校に寄ってから帰るから、母さんに言っておいて。」
ぼくは、うなずいた。
「じゃあな。」
兄ちゃんは、かばんを持つと、仲間の所に走っていった。
オガワメイ
2025年、第3回「青いスピン」作品募集 入選。