気持ちというのは厄介なものです。私自身は自分の気持ちが分かる。でも、私が抱いている気持ちをそのままほかの人に見せることはできません。望遠鏡を使っても、心電図を取っても、脳の検査をしても、そこに私の心が映し出されることはありません。それでも、自分の気持ちについてほかの人に分かってもらわないといけない場面や、ほかの人の気持ちを理解しないといけない場面はあります。例えば、友達のふるまいにいらいらしてうっかり冷たく当たってしまったとき。なぜ私がそんなことをするのか相手が分からず、困惑していたなら、自分の気持ちをきちんと相手に理解してもらう必要があるかもしれません。逆に、友達がなぜやけに自分にきつく当たるようになったのかを知りたいこともあるでしょう。
他人に見せることのできない自分の気持ちをその他人に分かってもらいたいとき、私たちは言葉を使います。言葉を使えば、「私の好きな映画をあなたがばかにしたから、いらいらしてしまった。」と自分の気持ちを説明したり、「どうして最近きついことを言うようになったの?」とたずねたりすることができます。きっとこの文章を読んでいるあなたにも、そうした経験があるかと思います。でも、言葉で気持ちを伝えるなんて、本当にできるのでしょうか? ここに哲学的な悩みの種があります。「哲学的」というのは、つまり「実験や観察をしたり、科学技術を利用したりというのでは、解決のしようがない悩み」ということです。「じかに見ることのできない他人の気持ちについて、言葉による説明だけで確実に知ることなんてできるのだろうか?」と悩むとき、その悩みは哲学的なものです。
ただしこれは哲学者しか悩まない問題ではなく、私たちが実際に直面するかもしれない身近な悩みでもあります。「できる限り精いっぱいに言葉を尽くしても自分の本当の気持ちは伝わらないのではないか。」「相手は言葉ではこう言っているけれど、本心はそれとは違うのではないか。」と悩んだことがある人は多いのではないでしょうか?
この悩みについて、哲学がストレートな解決策を持っているわけではありません。自分の心を相手に確実に知らせる方法や相手の心をのぞき込む方法は、哲学を勉強しても見つかりません。でもそのかわりに、哲学は私たちの思考のくせを教えてくれたり、ふだんとは違う考え方を指し示してくれたりはします。例えば、「人と人とが分かり合うために、互いの心の中を見通し合う必要などあるのだろうか?」と哲学は問いかけます。ひょっとしたら、互いの心をありありと見通すことなんてできなくてかまわないのかもしれない。互いの気持ちを本当には見通せないまま、それでもいっしょに過ごし、いっしょに何かをする、それこそが私たちの目指すべき「分かり合い」なのかもしれない。だから、ひょっとしたら他人の気持ちを分かるというのは、その人の心の中をのぞき込むことではなく、その人といっしょにやっていくことなのかもしれない。そんなふうに考えると、どんな気持ちでいるのかはっきりとは理解できない友達と、それでも分かり合う方法が見つかるかもしれません。相手の心の中を知るためではなく、相手といっしょにいるために言葉を聞く。言葉はきっとそんな分かり合いのきっかけなのでしょう。
ただ、言葉は万能ではありません。私が友達に、教師に、親に、きょうだいに「もっとちゃんと私のことを分かってほしい。」と思い、言葉を投げかけたいと思っても、そもそもそのための言葉が見つからないこともあります。私は子どものころ、どんな性別の子にも恋をする自分に気づいたり、周りから言われる自分の性別に居心地の悪さを抱いたりしていましたが、当時はそのために苦しむことがあっても、それを語るための言葉を知らず、何も言えないままに頭が痛くなったりいらいらしたりしているだけでした。当時の私と同じように、「相手と分かり合おうにも、そのきっかけとなる言葉がそもそも分からないから、ただいらいらしたり泣いたりするしかないのだ。」と感じている人もいるでしょう。そしてそんな人たちはきっと、周囲から「何を考えているのか分からない。」や「あなたとどのようにやっていけばいいか分からない。」と言われたりすることもあるでしょう。ほかの人と分かり合うことがどうしてもできないと感じ、そんな自分を責めたくなることもあるかもしれません。
そんなときには、まずは先ほどの哲学的な悩みを思い出してください。ただし、さっきとは逆向きに。「言葉を尽くしても私の気持ちは伝わらない。」ではなく、「言葉では伝えられなかったとしても、そこに私の気持ちは確かにあるのだ。」と。たとえ言葉が見つからなくても、そのために周囲の人と分かり合えなかったとしても、あなたのその気持ちは間違いなく本物であり、そのどうしようもなく抱いてしまう気持ちについて、自分を責める必要はありません。あなたはただそう感じているだけなのですから。
そしてまた、今ある言葉が全てではないということも、頭のどこかに置いておいてください。今は言葉が見つからないかもしれない。けれどこれから先、新しい場所に行き、新しい人と出会う中で、きっとあなたは新しい言葉を知り、他人との新しい分かり合い方を身につけていきます。ひょっとしたらそのようにして、以前には見つからなかった言葉を見つけられるようになり、以前にはできなかった仕方でほかの人と分かり合うようになれるかもしれません。私はそうでした。
自分の気持ちについて、他人の気持ちについて、気持ちと言葉の関係について悩んだときには、「こんなことを言っている人がいたな。」と思い出してもらえるとうれしいです。
絵・akira muracco
三木那由他
哲学者。専門は現代分析哲学、言語哲学。著書に「言葉の風景、哲学のレンズ」などがある。